『午後』
「実際には日本は安全なのです。」
壇上で社会学の教授が講義をしている。
僕は机に突っ伏したまま薄目を開けて教授を見た。午後の日差しがやわらかに差し込んでいる講義室はうたた寝に最高だ。
かろうじて目を開けながら、僕は講義を聞く。
昼ごはんを食べ過ぎたのかもしれない。おいしい肉だった。
「皆さんは日ごろマスコミの報道に接していて、日本の治安はどんどん悪化しているという印象を受けていることでしょう。しかしその認識は間違いです。このグラフをご覧ください。これは、日本の凶悪事件の件数を表したものです。一見したところ、ここ十年以上、事件件数は増えており日本の治安は悪化しているような印象を受けます。しかし、事件の件数と、実際の治安は直接的には結びつきません。たとえば、戦後の教育は欧米流の権利という概念を教えてきました。教育の浸透に伴って、権利意識が向上したといえるでしょう。そして権利意識の向上は被害者意識を高めました。結果として犯罪の被害者は被害届けを出しやすくなったといえるでしょう。被害届けの件数は当事者が事件をどのレベルから犯罪と認識するかにかかっているのです。
このことは同様に、強姦事件についてもいえます。強姦はいわゆる親告罪、つまり被害にあった当事者が被害届けを出さなければ事件として成立しません。殺人事件などとは違い、客観的には事件として扱うべき事例も、被害者の心情を汲んで不問となるケースも多いのです。権利意識の向上が、強姦事件において被害届けを出そうという意識を高めたという側面も否定できません。よって、このグラフが強姦事件の増加を示しているからといって、すぐに治安が悪化したとはいえないのです。」
教授は反応をうかがうように講義室を見回した。半数近くが眠っている。さぞかし張り合いがないことだろう。僕なら全員をたたき起こしているところだ。
しかし、教授は慣れているのか居眠りをとがめる様子もない。僕はいったん体を起こして、ポケットの中身を確認するとまた机に突っ伏した。
日差しが心地よい。
また昼ごはんのことを思い出した。
おいしかったが少し焼きすぎたかもしれない。今度はレアぐらいの焼き加減にしてみよう。ソースも変えてみようか。
「治安に直接的に関わるものとしては、殺人事件が挙げられるでしょう。殺人は社会の根幹に関わるものですので、警察の取り締まりも他の事件とは比べ物になりません。このグラフをご覧ください。これは、西洋諸国と日本の殺人事件の頻度を表したものです。明らかに日本の殺人事件件数は西洋諸国より少ないことがわかります。また他の犯罪に関しても圧倒的に発生率が低いことも次のグラフより明らかです」
スクリーンに映し出された、グラフを指示しながら教授は壇上で一人芝居を演じている。
夕飯もまたステーキだな。
「最後に、このグラフをご覧ください。これは日本における殺人事件の件数と発生率をまとめたものです。戦後一貫して殺人事件件数は減ってきており、最近では1000件内外で推移していることがわかります。殺人事件は他の事件とは違い、客観的に立証することができますので、この殺人事件の減少は日本の治安がじょじょによくなってきていることを直接的に示す証拠といえるでしょう。治安が悪化しているという意識はマスコミがつくりだしている物です。実際には、いまでも日本は世界で屈指の安全性を誇っているといえるでしょう。」
教授が言い終わると同時に、チャイムが鳴り響いた。
学生たちは先ほどまでの静けさとは打って変わって、あわただしく荷物をまとめると講義室を後にしている。教授の、来週は民族性についての講義をしますという言葉も誰も聞いていないようだ。
僕はまだ机に突っ伏したままぼんやりと薄目をあけていた。その格好のまま講義室を見回す。
最後の学生があわただしく講義室を後にした事を確認すると、僕はおもむろに立ち上がった。壇上では、教授がまだ講義資料を片付けている。
ポケットに手を入れて僕はゆっくりと教授に近づいた。
「ん、何か質問かね?」
教授はまっすぐに僕を見た。
学生の疑問に答えるのは教師の責務だろう。しかし残念ながら彼は責務を果たせそうにない。
僕は一度微笑むと、ポケットからナイフを取り出して教授の胸につきたてた。
少し血がかかったが、たいしたことはない。羽織っているコートを捨てれば問題はないだろう。うまくナイフが肺を貫通したらしく、教授は叫び声もあげない。驚愕の表情をしている教授の耳元で僕はささやいた。
「ねえ先生。あなたの言っていることはたしかに正しいですよ。たしかに日本の殺人事件の数は減り続けています。でもね、行方不明者の数は増え続けているんですよ。」
教授はもう動かない。
僕の家には今頃、大型冷凍庫が届いていることだろう。調味料を帰りに買わなくてはいけない。ともかく、うららかな午後だ。