最近の若者はなってない

 らしい。
 しかも残念なことにこういうことを言われるとき、自分は『若者』側に組み入れられてしまいます。23歳なのに。23歳で若者とかどんだけ平均寿命の長い生物だよ、犬ならとっくに死んでる年だぞ!などとあさってな方向のことも思いますが、今回書きたいのはそんなことじゃないです。

『最近の若者はなってない』

 意外に思うかもしれませんが『最近の若者・・・』という意見は若者では少数派です。たいがいは高い年代のヒト(50 - 60 代くらい)がよくいう言説です。どうやらこの傾向は世界共通らしく、だいたいどの文化でも28歳くらいになると『最近の若者はどうもなってない。この社会の伝統を受け継いでいるのはぎりぎり自分たちの世代だ』と考え始めるようです。(ソースは脳内。ちょっと正確性は怪しい感じです)僕はいま23歳ですので5年後くらいには『最近の若者はなってない』と言い出すはずです。
 しかし、いまはそんなことをまったく思いません。家庭教師した10代の『若者』はけっこういい線言ってる感じでした。少なくとも僕よりは『なってる』感じでした。なので今のこの感じを書いておくことにします。もしかしたら30手前の自分が『なってない』と思った時に参考になるかもしれません。その時のために、今の気分を使って今回はお話を書くことにしました。

池にて

 あるところに池がありました。そこには『あかんとすてが』という魚のような生き物が平和に棲んでおり、結構な繁栄を謳歌していました。
 しかし、あかんとすてがの長老にも悩みがあります。そう最近の若いあかんとすてが達は『なっていない』のです。

 『まったく今の若いやつらはなってない。とんと考えていることがわからん。池の奥深くにもぐることにうつつをぬかすやつがいたかと思うと、今度は陸に上がろうとするやつもいる。バカをやるだけならまだしも、それで命を落としたやつまでいる。わしらが若い頃は、ちゃんと水中をいかに速く泳げるかに仲間同士切磋琢磨したものだ。ほらみろ、だから今エサをとるのに困ってないんだ。近頃のやつは速く泳ぐ努力もしないで遊んでるだけだ。将来がどうなることか・・・』
 長老の悩みは尽きません。

 しかし平和な池にも転機は訪れます。乾燥した気候が続いて、だんだん池の水位が下がってきたのです。日々、小さくなっていく池の中でつぎつぎにあかんとすてが達は死んでいきました。一番早く死んだのは、深く潜ろうと『バカな遊び』をしていたあかんとすてがの若者でした。
 
 長老はいいました。
『ほらみろ言わんこっちゃない。遊びほうけているからそうなるんだ。速く泳ぐ努力を怠らなかったわしはこの通りぴんぴんしておるぞ』

 しかし、さらに池は小さくなります。速く泳げる長老ならあっという間に端から端に行けるくらい池は小さくなってしまいました。どれだけ速く泳いでもエサはつかまりません。エサ自体がないのです。やがて長老も息絶えてしまいました。

 ついに池は干上がってしまいました。しかし、あかんとすてがは全滅を免れました。最後に残ったのは、陸に上がろうと『バカな遊び』をしていたあかんとすてがの若者でした。若者は苦労しましたが、息も絶え絶え、何とか池を抜け出し新天地に足を踏み入れたのでした。

『なってない』が本当になってないかどうかを決めるのは長老ではなかった

 上の話でいいたいことは長老がバカだとか、若者がすごいということではありません。長老の言ったとおり『バカな遊び』をやっていた若者の一部は『バカな遊び』のせいで真っ先に死んでいます。小さくなる池の中で、深く潜る技術は無用の長物以外の何者でもありません。
 それに結局長老は死んでしまいましたが、そうならなかったかもしれません。そもそも池が小さくならず、そのままの大きさを保っていればおそらく長老の意見は絶対的に正しかったはずです。
 では一方的に若者は『なってない』でしょうか。そうではありません。上の条件で生き残ったのはやはり若者でした。現に生存しているのに『なってない』はずはありません。適応度の高さをどう測るかは議論がありますが、適応度はすべて個体の『生存』を前提としています。『適者生存』ではなく『生存適者』(生きてりゃ適者といっていい)のほうが正しいです。それに、深く潜ろうとした若者も偶然真っ先に死んだだけです。もし、雨季が続いてどんどん池が深くなる場合、生き残れるのは彼らのほうだったかもしれません。
 
 まとめるとこうなります。

1:環境がまったく変わらなければ『長老』の意見は正しい。その場合、『バカな遊び』をする若者は『なってない』

2:環境が変化する場合も若者は『なってない』方が大多数。しかし、この場合は長老も『なってない』。ごく一部の(偶然によって選ばれた)若者のみが『なってる』

 ここで問題なのは変化しない環境というものは、ほぼ存在しないということです。短期間なら変化なしの環境というものも考えられますが、長期的には必ず環境は変化します。なので1の場合はちょっと考えにくい。

 長老にも言い分はあるでしょう。
『わしが生まれた時から池の大きさはちっとも変わってない。現に曾祖父の時代から池の大きさは変わってなかった。それにうちは代々速く泳ぐ努力をしてきた、それでここまで繁栄したんだ』
 たしかにその通りなんでしょう。でもその事実は池の縮小という事実の前に何の意味もなかった。速く泳ぐ努力も功を奏さなかった。なぜなら『速く泳ぐ努力』自体も元はといえば『バカな遊び』でしかなかったからです。

 『バカな遊び』は生きるのに役立って、『生存必須技術』に変化した。そしてそれは環境の変化によってまた『バカな遊び』に戻った。
 それだけのことです。環境は変化するし、どの『バカな遊び』が『生存必須技術』になるのかは誰にも分かりません。その逆も分かりません。

まとめ

 ようは若者の大半はなっていません。『バカな遊び』の圧倒的多数は間違いです。でもそのなかの一部は『なっている』可能性が高い。すくなくとも長老の完全なコピーを作り続けるよりはよっぽど『なってる』。若者が『なってない』のは若者の特性です。おそらく若者にそういう特性がないと淘汰されるでしょう。長老のコピーを作るのも重要ですが、それだけでは十分ではないのです。

 だから正しい言い方はたぶんこうです。


『最近の若者はなってない。過去の若者と同じくらいなってない。そしてそれでよい』


追伸 : 『陸に上がるとは・・・。あかんとすてがの誇りはどうした!泳ぎを極めてこそあかんとすてが。そうでなければ死んだほうがましだ』といいたいあかんとすてがは池と運命を共にするのが精神衛生上よいと思います。