僕の進路として『官僚』をすすめる父親の幸福観

 僕の父親は自営業者で安定とは程遠い人生を歩んできた人です。バブルの時にはベンツ、ジャガーBMWを乗り回していたかと思うと、バブル崩壊後に会社を手放さなくてはならなくなったりして激動な感じの人生を送っている人です。
 そんな父親なので僕に進路のアドバイスなんかもしてくれます。なかなか父親らしくしていますね。
 そんな話の中で勧められたのが『官僚』という道でした。父親いわく官僚になるメリットは二点。

・安定している。
・人(民間)に指図できる立場になれる。

話を聞いていて『安定している』はアドバイスとして納得できました。父親は不安定な人生を送ってきたので息子にはそんなことはさせたくないと考えていてもおかしくないですし、年をとった今となってはやはり安定が魅力なのかもしれません。
 しかし、『人(民間)に指図できる立場になれる』はよくわかりませんでした。父親自身が規制で痛い目を見て復讐をして欲しいのかもしれないとも思ったのですが、どうもそうではないらしいです。
 重要なのは『指図できる立場になれる』部分のようです。僕はこの『指図できる立場になれる』ことに魅力を感じませんが、父親は魅力を感じているようなのです。たしかに父親は従業員を何人か雇っていたので『指図できる立場』の魅力を知っているのでしょう。しかし僕はまったく魅力を感じません。ここに僕は父親との間にある幸福観大きな溝を感じました。

『戦国時代の殿様』になりたい父親と、『現代の平民』になりたい僕

 父親は昔、『タイムマシンがあったら戦国武将になりたい』ともいっていました。一国一城の主になって国を動かしたいのだそうです。
 おそらく父親は『人の上に立つ』ということに非常に魅力を感じ、『人に指図できる』ことに幸福を感じるのでしょう。逆に『人に指示される』ことにはストレスを感じ、『人の下である』と感じると不幸なようです。彼の幸福感にとって重要なのは他の人との『相対的位置関係』です。彼がバブルの時に外車を乗り回したのもステータス的に『人の上に立ちたい』からだと考えれば納得できます。
 しかし僕は戦国武将になりたいとは思いません。僕にとって『人に指図できる』かどうかはどうでもよいことです。ですから戦国武将になることにはデメリットしか思いつきません。例えば戦国時代では食料も衛生的な水も常に不足気味でしょう。『人生50年』ですから寿命を全うすることも困難そうです。そもそも未熟児で生まれた僕は3歳まで生きていないでしょう。しかし現代ならまったくの『平民』である僕でも食料と水は簡単に手に入ります。現に今日僕は2600kcal程度の食事を摂取し、200L以上の飲用可能水を使って入浴しました。
 僕の幸福は摂取可能なカロリーとか、利用可能な飲料水量とか、利用可能テクノロジー(電力インフラ、インターネットなど)とか実際に手に入るものによって形成される部分が大きいようです。僕の幸福感は他の人との相対的な位置にはあまり左右されません。『上』でも『下』でも構わないのです。家族、友人と生存維持に必要な財とサービス、自己表現可能なツールが揃えば僕は大体幸せです。実際、父親がジャガーに乗っていたときも『くそっ!絶対親父以上に稼いでもっと上のステータス車に乗るんだ!』とは思いませんでした。かわりに『なんでこんな重くて燃費の悪い車にしたんだろう』と思っていました。
 たしかに僕も『賞賛』は欲しいと思います。はてなスターがつけてもらえればやっぱりうれしいです。しかしその『賞賛』は父親が欲しがる賞賛と少しずれています。父親が欲しい賞賛は『人の上に立ち』、『人を指図できる立場』であるが故の賞賛です。この賞賛は『下の立場の人』をたくさん必要とするので、ほんの少ししか世の中にありません。対して僕の欲しい『賞賛』ははてなスターのような形のものなのでいくらでも作れます。はてなスターのような『賞賛』は『下の立場の人』を必要としないのでほぼ無尽蔵に作れてしまうのです。
 行動パターンで考えるとさらに幸福感の違いが明らかになるかもしれません。
僕の父親は『勝つこと』が好きともいえます。対して僕は『得られるもの』が好きです。
 たとえばここに100gのアイスクリームがあったとします。二人の人がいてこれを分け合うとしましょう。そして部屋が暑いためアイスは徐々に溶けていくと考えてください。
 二人で分け合うので、50gずつが妥当ですが実際スプーンですくうとどちらかが多いように見えます。『こっちのほうが多い(ように見える)から、こっちをよこせ』という事態になりがちです。そのような事態になった際、僕と父親はおそらく違う行動を取ります。
 おそらく父親は粘り強く交渉しなんとしても『多いほう』をとるはずです。交渉に時間がかかってアイスが溶けても『多いほう』をとることで得られる幸福感のほうが大きいからです。たしかに『多いほう』をとれれば相手より得していることは事実です。
 対して僕は『いいよ。僕少ないほうにする』といってアイスが溶ける前に食べ始めると思います。相手が少し多くアイスを食べたって構いません。溶けていないアイスのほうがよっぽど僕の幸福感を増してくれます。更に好都合なことに、相手が幸福そうなこと自体が僕の幸福感を高めてくれます。
 ここで僕は疑問にぶち当たりました。父親は果たして幸福になれるのかというところが疑問になったのです。父親と同じ考えの人間ばかりの世の中だと、大半の人間は幸福になれません。『人の上に立ち』『人に指図できる立場』は限られているからです。運良く勝ち続ければ幸福でいられるでしょうがそうでなければ不満がたまる一方です。まったく不便な幸福観だと僕は思うのです。なにか父親の幸福観に利点はあるのでしょうか?
 そしてこの種の不満が結構世の中にあるんじゃないかとも思えてきました。ブランドもののバッグを持ったり、宝石を買い集めたりする人にはきっとこの種の幸福観がどこかにあるような気がします。いったいその幸福観はどこから来ているんでしょうか。不思議です。そして父親と僕の幸福観の溝が埋まる日は来るのでしょうか。楽しみな気もします*1

*1:これには僕の幸福観と父親の幸福観は共存可能だからという面があります。アイスの例だと父親は『多いほう』をとって幸福ですし、僕は溶けていないアイスを食べれて幸福です。