『疑問』
「なんで人を殺しちゃいけないの?」
まゆみはまっすぐこちらに視線を投げかけてくる。悪意はない。単純な疑問だけが視線の中に見える。
「べつに人を殺しちゃいけないなんてことはないんだよ」
俺は正直にそう答えた。
「え、そうなの?」
「うん。そうだよ」
「でもお母さんは人殺しはだめだって言ったよ」
「まあそう考えても悪くないからそういったんだろう。でもべつにそう考える必要もない」
「え〜そうなの?じゃあ、人を殺してもいいの?」
「いいってことはないな。そもそもいいとか悪いとかについてパパはあまり詳しくないんだ。だからまゆみには『取引』の話をしよう。昨日まゆみはガムを買ったね?」
「うん。レモン味のガムかったよ。最後の一個だった。おいしかったよ」
「それはよかったな。ガムを買うとき時まゆみは100円払っただろ?それが取引だ。まゆみは100円を差し出すかわりに、レモンガムを手に入れた。これが取引の本質だ。交換といってもいいな。ここで聞きたいんだが、この取引はいいことかな?」
「うーん。ガムおいしかったし、いいことだよきっと」
「そうだね。まゆみにとってこの取引はいいことだった。でもまゆみが一つだけあったガムを買ったんだとすると、まゆみのあとにガムを買おうとした人にとってまゆみの取引は良くないことだ。まゆみが取引してしまったからガムが買えなくなってしまったんだ」
「ん〜。そうかな〜。あとの人いなかったけどな〜」
「まあその場にはいなかったかもね。でもいたとしたらまゆみが買わなきゃよかったなと思ったかもしれない。まゆみがガムを買ったせいで、その人はガムを買えなくなったんだからね。とにかく取引には立場によっていろいろな見方ができる」
「そうなんだ。でもそれと人殺しと何の関係があるの?」
「人を殺すことも同じことだってことだよ。それは取引にすぎないんだ。たとえば人を殺すことについての罰は法律で決まっている。一番重い罰で死刑だね。この罰って言うやつはガムの値段みたいなものだ」
「どういうこと?100円なの?」
「いやちょっと違うな。自分が失うものっていう意味だ。ガムを手に入れるときにまゆみは100円を失っただろ?同じように『人を殺す』を手に入れようとすると、自分の命を失わなきゃいけないんだ」
「うわ〜。それはいやだね」
「そう思うだろ?だからお母さんはまゆみに『人を殺すことは悪いことだ』って言ったんだよ。まゆみが死ぬことは悪いことだからね。それにまゆみ自身が殺されることも悪いことだからその意味でも『人を殺す』っていう取引は悪いことだ」
「そうだね」
「でも逆も考えられる。自分の命を失ってもいいって考えられるなら、人を殺す取引も成り立つんだ。ちょうど100円を失ってでもガムを手に入れたいとまゆみが考えたように、自分の命を失ってでも相手を殺したいと考えたらその人にとって『人を殺す』取引はいいことになるんだ。日本国っていうシステムに自分の命を払えば、人を殺すライセンスがもらえるようなものだね。もちろん殺される人はたまったもんじゃない。でも殺される人は、まゆみのあとにガムを買おうとした人と同じで取引の外にいるんだ」
「うーん。難しいね」
「はは、そうだな。でもまあ自分の命を失いたいと思う人はあまりいないから人を殺すっていう取引はあまり成立しない。あんまり珍しい取引だから『悪いこと』ってことにして、みんなが近づかないようにされてる。とにかく覚えておいて欲しいのは『人殺し』も取引の一つに過ぎないってことだ。その取引を見て、いろいろな人がいろいろな立場から『いい』とか『悪い』とかいうけどね」
「なんとなく分かった気がする!」
まゆみは屈託ない笑顔を向けてくれる。
この笑顔に比べれば俺の命は100円ほどの価値もないだろう。
だから、そう。
あの『取引』は俺にとって『いいこと』だった。
それだけはたしかだ。